今回は「大谷町貨物支線」についてご紹介したいと思います。
阪神間に住んでおられる方であれば、当然、山手幹線をご存知ですよね?
昭和21年に戦災復興事業として都市計画決定されて以来、64年もの長い歳月をかけて、平成22年10月に晴れて全線開通したあの山手幹線です。
私の子供時分とは打って変わって、キレイに舗装されどこまでも続いていく、あの山手幹線を車で通るのがとても好きなのですが、山手幹線を通るたびに、とても不思議に思っていたことが1つだけあります。
それは、ちょうど大谷町付近を通る際に、低い高圧線のようなものが南北に横切っている光景です。
こちら。
電線にしてはえらくボリュームがあるし、高圧線にしては、えらく高さが低いし・・・。
車で通っていても、正直、落ちてきそうでちょっと違和感を感じるゾーンです。
「なんでもっと高い位置に作らなかったのだろう?」とか、「こんな市街地で一体どこに送電しているのだろう?」とか、「そもそも、なんで山手幹線上空を横断しているのだろう?」などど、色々思っていたので、今回、調べてみることにしました!
電線の理由はすぐに分かりました!
電線が山手幹線を横断しているすぐ北側、大谷町にJRの変電所がありました!
ここで電気の電圧を変えて、山手幹線より少し南側にあるJR東海道本線の電力の流れを制御していたのですね。
納得。
でも、わざわざなんで山手幹線を横断しないといけない、こんなところに変電所を作ったのだろう・・・?
さらに調べたところ・・・。
なんと。
元々、この架線沿いに国鉄の線路があり、汽車が走っていたそうです。
その名は「大谷町貨物支線」。
なんでこんなところに?と思う場所ですが、実は大谷町のJR社宅がある一帯は、明治時代、山だったそうで、大正時代になり、その山の土砂を神戸港の造成や築堤の建設に利用する為に、山が切り崩され、その土砂を搬出するために、貨物線が建設されたそうです。
専用の貨物線が建設される位ですから、結構な規模の山だったのかもしれませんね。
当時は大谷町を起点とし、現在のJR東海道本線に向かって、大阪方向、神戸方向、両方へと「ハの字」に敷設されていたようですが、カーブする市境部分にその名残をとどめる程度であり、現在では残念ながら、痕跡はほとんど残っておらず、確認することはできません。
また、昭和初期までに大谷町の山は全て切り崩され、広大なその跡地には国鉄官舎、そして変電所が建設されました。
昭和9年の電化工事で、大阪方面への貨物線は送電線用の敷地として利用されましたが、神戸方面への貨物線は放置され、後に宅地へと消えてしまったようです。
旅客列車ではなかった為、資料などもほとんど残っておらず、後世に語り継がれる事もあまりなかったようです。
なんだかちょっと、寂しい話ですね。
ちなみに、唯一、兵庫県庁には、大正12年に日本陸軍が作成した、JR東海道線から北に延びる2本の線路が記載されている地図が保管されているそうです。
あの山手幹線から住宅街の上空を横断している不思議な架線が、その昔、港に土砂を運んでいた汽車の走行ラインだったなんて、西宮育ちの私でも全く知りませんでした。
大谷町の山を豪快に切り崩していく男たちや、それらの土砂を運搬していく汽車の機関士たち。
現地で当時の光景を想像していたら、彼らの陽気で高らかな笑い声が、今は静かに佇む、大谷町JR社宅の空から聞こえた気がしました。
今回は「大谷町貨物支線」のお話でした。